kate100s’s diary

百野毛糸の日記です。

ミューズ願望とヒーロー願望

遅ればせながらクリント・イーストウッド監督の『15時17分、パリ行き』を観た。

 

私は常日頃から電車に乗っている時とか、ここでテロ的なことが起こったら目の前にいるこどものことをちゃんと助けられるかな、みたいなことを考えてしまう。実際に起こったテロ事件を、実際に遭遇した人たちをキャストにして〜という作品説明を読んだだけでとても興味を惹かれた。現場での乗客の機転の数々を見られる映画なのかと思って。

 

始まってすぐにそういう映画じゃないとわかった。丹念に描かれるのは後に表彰されることになる3人の子供時代、青年時代。友情や思想。パリ行きの電車に乗るまでに起こったこと。後に起こることがわかっているから、なんでもない楽しいシーンで泣きそうになったり、テロのシーンに震え上がったり、3人がまた笑っているシーンでほっとして涙がでたり、エンドロールの頃には嗚咽が止まらなくなっていた。

 

私は3人のように勇敢に立ち向かえないかもしれないだろうし、非力だし、それでも、スピーチにあったようになんらかの行動は取らなければいけないな、と思ったしそれを実行した3人とその他の乗客に心から感動した。

 

とっさの時に正しい行動で周りの人を助けられる人になりたいのがヒーロー願望だとすると、昔の私はミューズ願望が強いタイプだった。才能のある誰かに見出されて成功したい。今思えばとても危険な願望だし、この場合の”成功”って一体なに?と昔の自分を問いただしたい。

 

当時の私が崇拝していたのはリリー・フランキーさんで、エッセイはほぼ全部読んだと思うし、東京タワーも心して読んだし音楽も聞いたし、好きなタイプの映画はもちろん、怖い映画も頑張ってみた。リリーさんがよいとする女性像を目指しそうとしたけど、どうやら根本的に不可能だと途中でわかった。『女子の生きざま』は長い間私のバイブルだったけど、私自身はカリカリ梅も食べられない。

 

一度だけ、渋谷の街でリリーさんにとてもよく似た人を見かけたことがある。交差点ですれ違うとき、このオーラ、このおしゃれさ、この方はリリーさんに違いない!と思ったんだけど恐れ多すぎて話しかけることができなかった。それまでもニアミスはあって、たまにいくカフェで「昨日リリーさん来てたよ!」と教えてもらったりしていたけど実際にお会いしたことはなかった。

 

あの頃の私はリリーさん(を筆頭とする才能のある人)に、「君面白いね!」と言ってもらったら死んでもいいくらいのテンションで生きていた。何かを表現したいとか、具体的に何かを作るとか、そういうのもないままに生身の自分に価値があると認めて欲しかったんだと思う。本谷有希子さんの『ほんたにちゃん』を読んだときに心臓が止まりそうになったんだけど、今思えばその辺の心境があまりにも赤裸々に書かれていたから。

 

端的にいうと承認欲求とか、自分に自信がないから側にいる人の地位の高さで自分の地位も上がったと勘違いしたがっていたとか、そういう類のよくあることみたいで自分にとてもがっかりする。それでもこの感情を認められただけ少しは成長できているんだろうけど。

 

有名写真家のミューズだった方の告白を読んでいて、胸が痛くなったと同時に怖くなった。昔の私が有名写真家に「君を撮らせて」なんて言われたら喜んで引き受けただろうし、扱いのひどさなんて全く気にせずその関係にのめり込んでいったんじゃないか。私は自分が気に入らない相手には自身の権利をしっかり主張できるのに、好きな相手、ましてや崇拝している相手に対してはその辺を曖昧にする癖がある。

 

幸か不幸か私にミューズになってほしいと言ってくる才能のある方はいなかったし、だから地道に働くしかなかったので会社員を続けているし、そもそも年齢を重ねるとミューズ願望みたいなあやふやなものに身を任せることのリスクを取りたくなくなる。結果として関心は衣食住の充実だったり、健全な人間関係だったり、地に足のついたものに変わった。

 

ミューズ願望の危うさに気づかせてくれる点で、彼女の告発はとても意義のあることだったと思う。その写真家に対する告発という面ももちろんあるけど、若い女性が陥りがちなトラップの構造としてとても勉強になった。彼女が辛い境遇からきちんと脱出して、乗り越えて、今自分の力で立派に生きている様子はとても勇気づけられる。最近心を揺さぶられた二つのストーリーに関する感想でした。