kate100s’s diary

百野毛糸の日記です。

記憶の中にいる私

同窓会的なのがあって、久しぶりに会う同級生とかと交流したんだけどとても些細なことで頭がいっぱい。

 

先生のこと「とっくり」って言ってたよね?

 

この衝撃的な言葉のおかげでその後のいろんな会話のインパクトが霞んでしまった。

 

自己認識の中で、私は先生のことをとても尊敬していて、そのレベルは崇拝に近く、卒業してからも何かと相談に乗っていただいたりした。それがとっくり?だいたいタートルじゃなく?ショックで立ち直れない。

 

立ち直れないのは、自分がそういう不用意なひとことを言っていて、しかもぜんぜん覚えていないことで、美化された思慮深い自分のままでいたいのにそうもいかない現実がつらい。学生時代からずっと付き合いのある友達に確認したら「そんなこと言ってなかったよーー!!」と否定してくれたけど、昔話をしているうちに言っていそうという気もしてくる。記憶をたどると出てくる同級生や後輩につけた微妙なあだ名の数々。「Girls make me happy」のTシャツを着ていた子に「ハッピー」というあだ名をつけるとか、『勝手にふるえてろ』のヨシカがつけた「フレディ」と同じレベル。

 

友達にも厳しい現実が押し寄せていた。「合宿で東北の方にいったとき、ここからは休憩がとれないからトイレに行っておいてくださいね、と注意していたのに行かなくて、結局トイレ行きたくなってバス停めたよね?」とか。彼女には合宿の記憶自体がなかった。

 

長い付き合いの中で記憶されているエピソードは、自分が覚えているものとぜんぜん違うことがあって、たいてい忘れてほしい方が残っているものかもしれない。だいたい人は変なことを覚えていて、自分を変だと思いたい人はいないからそういうエピソードをうまく補正してしまうのかな。

 

昔の知り合いから連絡があり、毛糸さんはこんな人でしたね、みたいな記述に全くピンとこないことがある。私が本を出した時に熱い感想を送ってくれたよね、と言われてそんなことをした記憶がぜんぜんなかったり。自分の行動に責任を持たなきゃいけない、一貫性が大事、というのはそういうことなのかも。

 

この前会った友達が、長い間借りていてごめんね、と本を数冊返してくれた。ここでまた記憶にない病。かろうじて覚えていたのは『桐島、』のDVDだけで、他の本は貸した記憶はおろか買った記憶すらない。『熟婚のすすめ』/川島なお美著。一体なんでこんな本を買い、貸そうとまで思ったのか。今新鮮な気持ちで読み返している。あとは闘病記。これもつらかったから買ったんだろうけどなぜ貸そうと思ったのか。友達も渡されて困ったのではないか。

 

奇しくも先生が、「同じところにいるには変わり続けなくてはならない」というようなことをおっしゃっていた。深すぎてちゃんと理解できていないかもだけど、今の私は先生や上司に変なあだ名をつけることはしないし、過去が恥ずかしいと思うことは成長の証明だと思いたい。願わくば人の記憶の中にいる私もいい感じに編集されていればいいなと思うけど、今の私が与えるインパクトがちゃんとあれば私の印象は更新されていくわけで、過去より今が大事っていうのはそういうことなんだろう。

 

ZOZOTOWNからワンピースが届いた。お祝いの席で着るワンピース。お祝いの気持ちがずっと盛り上がっていてこれで二着目。どちらを着るか当日まで迷うんだろうけど、数年に一回しか会わない人もいると思うとどんな自分で参加したいかはとても重要で、何より、大切な友達の晴れ姿を引き立てるいい感じのものを着たいと思う。最近足が痛い日が続いていてスニーカーでも痛いくらいなんだけど、春には落ち着いて、思い通りのピンヒールを履いて参加できますように。晴天に恵まれますように。